教えのやさしい解説

大白法 777号
 
三種の教相(さんしゅのきょうそう)
  三種の教相
 三種の教相とは、天台大師が『法華玄義(げんぎ)』に、
 「教相に三と為(な)す。一に根性(こんじょう)の融不融(ゆうふゆう)の相(そう)、二に化道(けどう)の始終不始終(しじゅうふしじゅう)の相、三に師弟(してい)の遠近不遠近(おんごんふおんごん)の相。教とは、聖人、下に被(こうむ)らしむるの言なり。相とは、同異(どうい)を分別するなり」(法華玄義釈籤会本上〈しゃくせん えほん〉 五七n)と釈しているように、法華経と爾前経との教義の違いを三点にわたって検討し、法華経が諸経の中で最も勝れていることを明かしたものです。
 前出の文に明らかなように、三種の教相の「三種」とは、
 一、根性の融不融の相
 二、化導の始終不始終の相
 三、師弟の遠近不遠近の相
の三つで、教相の「教」とは仏の教説を言い、「相」とは同異を分別すること、即ち、仏の教説の特質や浅深勝劣(せんじんしょうれつ)を判釈(はんじゃく)することを言います。

  根性の融不融の相
 第一の「根性の融不融の相」とは、衆生の機根が仏と融合しているか否(いな)かによって、法華経迹門(しゃくもん)と爾前経(にぜんぎょう)との勝劣を判ずるものです。
 爾前経は、衆生の根性が未熟(みじゅく)のゆえに声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩の三乗に区分され、仏の生命と融け合うことがないので「不融」とします。これに対し法華経『方便品(ほうべんぽん)』では、衆生の根性が熟(じゅく)し、三乗の機根を開いて一仏乗に会入(えにゅう)することができるので「融」とします。このように、第一の教相では爾前経に対して法華経迹門が勝れていることを判定するものです。

  化導の始終不始終の相
 第二の「化導の始終不始終の相」とは、衆生に対する下種益・熟益・脱益の化導の始終が明かされているか否かによって、法華経迹門と爾前経との勝劣を判ずるものです。
 爾前経は、種熟脱の化導が説かれていないので「不始終」とします。これに対し法華経の『化城喩品』では、三千塵点劫の大通結縁(三千塵点劫の昔、大通智勝仏の第十六番目の王子であった釈迦菩薩が覆講した法華経を聞いて妙法の縁を結んだこと)の下種益、中間と爾前四十余年の熟益、さらには迹門における脱益が説き明かされているので「始終」とします。この第二の教相も爾前経に対して法華経迹門が勝れていることを判定するものです。

  師弟の遠近不遠近の相
 第三の「師弟の遠近不遠近の相」とは、仏(師)と衆生(弟子)の、久遠以来の関係が明かされているか否かによって、法華経本門と爾前・迹門との勝劣を判ずるものです。
 爾前迹門の釈尊は、いまだ久遠の成道が明かされていない始成正覚(しじょうしょうかく)の仏であり、仏の本地身(ほんちしん)と衆生との関係も明らかに説かれていないので爾前迹門の教えを「不遠近」とします。これに対し法華経の本門『寿量品(じゅりょうほん)』では、釈尊の久遠の本地が開顕され、久遠以来の師弟関係が明らかにされたので「遠近」とします。この第三の教相は、爾前迹門に対して法華経本門こそ釈尊の真実究竟(くきょう)の法門であることを判定するものです。

  下種三種の教相(第三の法門)
 この天台の立てた三種の教相に対して、日蓮大聖人は文底下種(もんていげしゅ)の仏法の立場より『常忍抄(じょうにんしょう)』に、
 「法華経と爾前と引き向けて勝劣浅深を判ずるに、当分跨節(とうぶん かせつ)の事に三つの様有り。日蓮が法門は第三の法門なり。世間に粗(ほぼ)夢の如く一・二をば申せども、第三をば申さず候」(御書 一二八四n)
と仰せです。この『常忍抄』の文について、総本山第二十六世日寛(にちかん)上人は
『観心本尊抄文段(もんだん)』に、
 「解(げ)して云わく、一には爾前当分・迹門跨節、是れ権実相対(ごんじつそうたい)の法門なり。二には迹門当分・本門跨節、是れ本迹(ほんじゃく)相対の法門なり。三には脱益(だっちゃく)当分・下種跨節、是れ種脱(しゅだつ)相対の法門なり。是れを下種の三種の教相と名づくるなり。故に血脈抄に云わく『下種三種の教相』云云。若し台家(だいけ)の三種の教相に望むれば、彼の第一第二を以て即ち当家(とうけ)の第一と為(な)し、彼の第三の師弟遠近を以て即ち当家の第二と為し、更に第三の種脱相対を加えて当家三種の教相と為すなり。(中略)此の第三の法門は天台未弘(みぐ)の大法にして蓮祖(れんそ)出世の本懐なり。故に『日蓮が法門は第三の法門なり』と云うなり」(御書文段 一九四n)
と御教示されています。
 即ち、天台の第一「根性の融不融の相」・第二「化導の始終不始終の相」は、大聖人の第一「権実相対」の法門に属し、天台の第三「師弟の遠近不遠近の相」は、大聖人の第二「本迹相対」の法門に属します。そして、この釈尊の法華経本迹二門より一重深く立ち入った法門が、「第三の法門」であり、大聖人の出世の本懐である「種脱相対」の法門なのです。これを「下種三種の教相」と言います。大聖人は、この「下種三種の教相」によって、釈尊の脱益仏法と大聖人の下種仏法を立て分けて、下種の法体(ほったい)である南無妙法蓮華経こそ、末法における即身成仏の大法であると御指南されているのです。
 なお、日寛上人が同文段に、
 「然るに諸門流の輩は此の義を知らず。只天台の第三を取って即ち蓮祖の第三と為す。此の三種の教相を弁(わきまえ)えざるを以ての故に、一切の法門皆咸(ことごと)く迷乱す」(同)
と仰せのように、他の日蓮宗各派においては、相伝(そうでん)の仏法に依(よ)らず、天台の第三の教相をもって、大聖人の第三の法門に充(あ)てるという大きな過ちを犯しています。ゆえに一切の御法門の解釈を誤り、迷乱しているのです。
 大聖人の文底下種の仏法を正しく信受する本宗僧俗は、誤った教義解釈によって、大聖人の正法を破壊することのないよう、どこまでも唯授一人の血脈相伝に基づいた信行と教学の研鑚(けんさん)に精励(せいれい)することが肝要です。